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ある日のなか志まやの出来事、つれづれ

2012年01月の店主日記
[過去の店主日記一覧]
●2012年01月24日(火)

お召しと振袖

お母様は、西陣お召(八丁撚糸入) 角散しとドット地紋

娘様、松竹梅を総柄に染めた個性的な柄


昨今の振袖姿には、なんと表現していいか困ることがあります。いや、もしかしたら、ただ自分が老け込んでいるのかもしれないと疑うこともあるのですが、やはり古典だからいいというのでなく、染めにしても織りにしても、仕立てにしても、小物一つとっても、上質なものが醸し出す品の良さは、年代を越えて着続けられることも保証します。

振袖は、着なくなったら洗い張りして保管しておくのがいいと思います。
自分が結婚して、娘が出来た時、お祝い着として仕立て直してあげることもできますし、保存もそのほうが生地には良いですね。
自分の孫の7歳のお祝い着を、そのおばあちゃんが着た振袖で仕立てたという例もありますし。
この総柄なら、可愛いお祝い着が出来そうですね!


●2012年01月18日(水)

新作『しずはた織・熨斗目』と『銀彩に月』


座繰り糸とアクセントに柞蚕糸を用いながら、生地の少し野性味を持たせ、グレー濃淡だけで熨斗目を織り上げました。画像は仮絵羽に裁断する前。帯は仁平幸春さんと平林隼人さんの箔の技法を合体させた『月帯』の新作です。この着物と帯の取り合わせをした時、すぐに杉本博司さんの海の作品を思い浮かべました。

●2012年01月17日(火)



この杉本さんの写真には月はありません。
しかし 、僕が杉本博司さんの海の写真をすぐにイメージしたのは、単に横にグレーの段を取った構図というだけでなく、杉本さんの写真は何か命や光というものを、密度を持って定着させたという解釈をしているのですが、それと同じ感覚が糸一本一本、箔一枚一枚が染色と相まって重層な密度を作りあげている、この布の取り合わせにも、同じものを見て取れたからであります。

●2012年01月16日(月)



月明かりに照らされていた海の写真だと、僕は勝手に想像したいたのかもしれません。
満月なのか、それとも三日月なのか、、、

●2012年01月15日(日)



この写真と同じく、紙や布に定着させられた時間や命や光のはずなのに、対峙した瞬時にその時間や命や光を、今のものとして感じさせる力があるように見えました。この写真を目の前にしたとき、またはこの着物や帯を身に纏った時、その方にどんな時間が流れていくか楽しみであります。


光を感じるもの そういう染めや織りはやはり魅力あります。自然界でもそうですし、観念的にも同じです。光は生きることを彩るものです。自ら光るものを陽の光とするなら、陰の光もあります。陽の代表は太陽であり、陰の代表は月です。月は自らは発光していないので、太陽の光の反射が地球上に居る我々に届いています。その陰の光に、とくに日本人は多くの想いを重ねてきました。月のモチーフ、そして光。大きさ、形を変えながら我々に届く月の光に寄せる想いは様々です。陰の光を女性になぞらえた事例もあります。月は女性のものかもしれません。


●2012年01月06日(金)

2012年 仕事始めに思う事

美術品や調度品の設えの仕方とかにしても、着物と帯の合わせ方にしても、ちょっとしたしたコツさえ掴めば誰でもそれなりに出来るので、最近はあまりコーディネイトがどうこうなどとHPやなか志まやのブログでも言及してない。イメージを掴んで貰う為に着物と帯合わせなどをするが、それとて絶対的なものではない。最近はよくお客さんの好みに耳を傾けるようになったし、選択肢を揃えて差し上げて、その中で評論するような形で、今は何が必要なのか!を探るような営業スタイルと言ってもいい。

肝心なのは、この場合とその場合の差を明確にすることだと思う。着物にしても帯にしても、一度手を離れるとあとはお客様と共に暮らして成長するものだ。大まかな未来予想図を示すことも必要だ。今の流行りも示して、過去の例を教えるのもまたいい。

着物を着ることには、各々意味合いがあって誰一人として々ではない。まさに十人十色。着物を着ることで行なう感情表現(それは褻でも晴でも)千差万別、一つとして同じものはない。
次にはその衣装で着手を美しくみせてあげたい。つまり視覚的に美しく見せたい。
『図柄は体型を補正する』のだ。
細くてもデブでも中肉でも、いいな〜と思えるポイントがある。そこを増幅させる手助けをする色であったり暈しであったり、縞であったり格子であったり、絵柄であったりする。目の錯覚迄も利用して美しさを作り出す。
美しいには、かわいさもあれば色気もあるし、楚々としたものあるし、これまた限定出来ない。着手の心の望みを読み取る作業が必要だ。
そこで、はじめてこれとこれをコーディネイトしようと提案出来る。変な話、どれでも正解の可能性があるし、即座の決めつけはできないと思う。

それでもある答えを用意しなければならないので、やはり責任は大きい。勿論、額も大きい。

だから自分をいつも、あれはこれはそれはと、ぐるぐる頭を廻して、時には賢くなったり、時にはぶりっこになったり、時にはエロくなったり、いくつも自分の人格をつくるような作業をしてる。そこに成り切って、自分も感動するくらいじゃないと人にはなかなか勧められない。そんな中でも芯はある。それは馬鹿じゃないこと。品があること。馬鹿を受け入れられるくらい賢いこと。下品を許される程上品であること。上手く言えませんが漠然とはいつも意識してる。『軽くて重い 重いくせに軽やか』

最後の判断の目は、いつもそこを向いているはずだ。


●2012年01月03日(火)

『袖振り合うも他生の縁』

『そでふりあうも たしょうのえん』は『そでふれあうも たしょうのえん』ではなく、また、『袖振り合うも多少の縁』ではなく『袖振り合うも他生の縁』と表記します。『他生』を『多生』とするのが正しいとする仏教の教えがあり、この世に何度も生まれ変わる、輪廻転生の思想を表していると解釈することが正しい、というのが大方の見解ですが、呉服屋的には、『袖』という着物の一部を示す言葉が使われている事と、『そでふれあう』ではなく『そでふりあう』と能動的な言葉になっているので、大方の考えとは違う独特の発想をします。

以前、古代から袖(またはそれに類する布』を振ることは、『魂よばい』つまり呪術的な意味合いがあると書いたことがあるのですが、そこから呉服屋的発想をしますと、『袖振り合うも他生の縁』は、『袖を振って呼び合った縁(えにし)が、他の生(いのち)を生む縁となる』ということを意味していると考えます。

ならば、『多生』でも『子宝に沢山恵まれた』とも言えます。
こんなこじつけ的な浅い発想ですが、着物の面白さは、そのそれぞれの部位もまたその存在自体が、日々の生活(褻ごと)や祈り事(晴れこと)と密接に結びついて熟成してきた衣装であることです。

洋服は確かに機能的でデザイン性に富んで、無くてはならないものですし、呉服屋である私も洋服を愛しております。ただこの衣装には着物が造り上げたような感情的なものや思想的なこと、日本人の宗教観に沿った想いを、着物と同じように洋服に重ね合わせることは難しいというのは事実のような気がします。

着物原理主義者でもないので、何が何でも着物じゃないと!など少しも思いませんが、深みのある味わいがする衣装であるというのが着物の面白さの一つかなといつも考えています。

『生』は『新しい命』。それは子を授かることだけではないでしょう。
人が生み出して行く『命』のような様々は事象は、限りがありません。
仏教的な意味合いでこの言葉を捉えようと、呉服屋的解釈で捉えようと、どちらにせよ少しでも『よい生』と『よい縁』を今年も願います。

                  なか志まや店主 中島 寛治